平成16610

 

地方自治演習(片木教授)

 

45032005 武井俊輔

 

 シーガイアに見る観光政策の沿革と失敗〜

 

宮崎県は「観光宮崎」1960年代後半〜1970年代前半、観光ブームに沸いた。きっかけは1960年の島津貴子様(昭和天皇次女)の新婚旅行、同じく62年の昭和天皇皇后両陛下のご訪問、そして65年のNHK朝の連続テレビドラマ「たまゆら」(川端康成脚本)などであった。それは「観光宮崎の父」「民間知事」などとも呼ばれ、「大地に絵を描く」とのコンセプトの下、宮崎県内各地の観光施設を整備した、岩切章太郎元宮崎交通社長の発想に依るところが大きかった。

その後の新婚旅行ブームでは宮崎はまさに新婚旅行のメッカになり、74年には全国の新婚カップル105万人のうち37万人が宮崎を訪れるというピークを迎えた。しかし、その後の沖縄返還と海外旅行ブームの到来により宮崎の新婚旅行客は激減し、その後減少の一途を辿った。取り立てて大企業のない宮崎の政財界では、その時代が忘れられず、再びの「観光宮崎」の到来が官民挙げた悲願であった。その中でリゾート法とそれに続くバブル景気の到来を迎えるに当り、観光宮崎再生の切札として計画されたのが「フェニックスリゾート シーガイア」である。

 

T フェニックスリゾート シーガイアの沿革

 

1 フェニックスリゾート株式会社

1987年、リゾート法が成立し、シーガイアは「宮崎日南海岸リゾート構想」によって、志摩スペイン村(三重県)とともに第一号指定を受けた。翌8812月、もともとホテル、ゴルフ場を経営していたフェニックス国際観光を母体に宮崎県、宮崎市が各25%の7,500万円、その他メインバンクの第一勧銀、宮崎交通などが地元資本5,000万円で出資して設立されたのがフェニックスリゾート株式会社である。

 

 

 

2 行政の関与と過大化する計画

シーガイアの建設予定地の松林は国有の防風保安林であった。そのため林野庁は保安林解除の条件として自治体に出資を求め、宮崎県と宮崎市が25%づつ出資した経緯がある(『朝日新聞。西部版』2001.2.20)。これについては住民の工事差し止め訴訟なども起ったが、国有林売却による国有林野事業の赤字解消を解消できる(『朝日新聞・西部版』1998.3.18)という意図もあり、事業の公共性の名のもと、約35hrが約100億円で売却された。

しかし、計画はバブル期に策定されたもので総事業費60億円であり、世界規模の国際会議場、地上42階・地下3階のホテル、プロゴルファー、トムワトソン設計のゴルフ場、そして巨大な開閉式屋根を持つ室内プール「オーシャンドーム」であった。とくに他施設との差別化としての目玉施設とされた「オーシャンドーム」はギネスブックにも登録されるほどの規模だったが、その分計画はどんどん過大になり、結局着工時は2,000億円を超えるものとなった。

 

3 慢性赤字から経営破たんへ

1994年、シーガイアはグランドオープンしたが、もともと過大な計画であり、一度も収入の目標額はおろか、黒字すら計上することは出来なかった。挽回を目指した県は2000年の九州沖縄サミットの誘致を表明し積極的な活動を開始した(その後サミットは外相会談のみが開催された)。

1999年末には累積赤字は1,115億を突破していた。サミット直前に協調融資団の幹事社であった第一勧銀(当時)が撤退を表明。事実上新規融資は打ち切られた。しかしその段階に入っても県はシーガイアの維持を図り、「国際コンベンションみやざき基金」の設立を図った。県議会は紛糾したが松形知事の「県民の皆様に多大なご心配を掛けたことを深くお詫び致します。政治生命を賭け、シーガイアの再生に全力で取り組みます。」とのコメントにより収集、成立した(『朝日新聞・宮崎版』1999.12.19)。しかし、本来は宮崎市を始めとした周辺市町村の拠出や一般の募金を元に100億円を集める計画だったが、実質宮崎県単独の60億円の基金となり、その中から25億円が“運転資金”としてシーガイアに拠出された。

しかし、まさに焼け石に水で結局は借入金の約2,600億円とあわせ、3,261億円の負債を抱え会社更生法を申請。その後アメリカの投資会社リップルウッド・ホールディング社が投資額の1割にも満たない162億円で経営権を取得し、県民の財産であったはずの施設は、外資の手に渡ってしまった。

 

 

 

U 破たんの原因分析

 しかし、ここまで立ち至った原因は単に「バブル」に期するものではなく、リゾート法と宮崎県の対応の問題点が見えてくる。まず計画段階のずさんさ、市民の対応、整理に踏み切れなかった行政責任を検討したい。

 

1 過大な計画と誤算

前節でも述べたが、計画は著しく過大なものであった。佐藤棟良元フェニックスリゾート社長の「やるのであれば、世界レベルでなければ」(『宮崎日日新聞』特集「夢砕かれた不死鳥・佐藤棟良」2002.3.10)という当初の考え方のもと、大型施設が建設されていった。佐藤氏は破たん時の記者会見で「国会でリゾート法を決めて、全国の各県が我も我もと手を挙げた。リゾートがどういうものかも分からずに遊ぶ施設さえ作れば人が来る、という雰囲気があった。」述べている。その当時の時代背景がこのような結果を生んだことは間違えないといえる。それにしても、計画は余りにも杜撰であった。目玉施設である「オーシャンドーム」は、開業前には年間250万人と見込んでいた入場者は、95年度の124万人をピークに99年度は78万人にまで落ち込んだ。

また、メインバンクの第一勧銀が総会屋への利益供与事件を起こし、佐藤社長が「企業人生50年の長きに渡り、ご信頼を頂いた」と述べた宮崎邦次・元会長が自殺するなど、シーガイアを支援してきた体制が変化したことも要因の一つとしては挙げられる。

 

2 無視された県民の意見

県民の多くは「シーガイアがうまくいくはずはない」と認識していた。特にメインのアトラクションであるオーシャンドームの入場料は4,200円と東京ディズニーランドよりも1,200円も高いものであった。県民所得が沖縄に次いで下から2番目で、青島や日南など多くの海水浴場を多く抱える宮崎であり、そもそも宮崎県民を“商売相手”として見ていなかったことが挙げられる。

また、シーガイア建設のための防風林を10万本伐採したことには住民の反対が相次ぎ、訴訟にまで発展した。しかし、県はまったく対応を変える意志はなく、またシーガイアが「観光宮崎」の最後の切り札的存在として位置付けられたため、当時はマスコミもあまりを問題としなかったことは書いておかなければならない。

 

 

3 宮崎県の対応の問題点

もちろん前述の通り「観光宮崎」の復権を官民が意図したことは大きな要因である。しかし、宮崎県にはいくつかの構造的問題があり、それが問題をより甚大なものにしたのは間違えない。

 

@ サミットを理由とした“決断の先送り”

少なくとも県はT-3で述べた第一勧銀融資打ち切りの段階で整理する必要があった。しかし、松形知事は「県の責任は出資の範囲内」との過去の答弁を翻し、翌年に控えた九州沖縄サミット前に問題を起こすことは出来ない、として60億円の「国際コンベンションみやざき基金」を創設し、第一弾として25億円をシーガイアに拠出した。

第一勧銀の融資打ち切り時点の累積債務は1,340億円であったが、結局ここでの決断を先送りにした結果、財務状況は著しく悪化し、破たん時の負債総額は借入金の約2,600億円も含め3,261億円にまで増大した。また情報も非公開で、元県議に情報公開訴訟を起こされるなど、第3セクターであるにもかかわらず積極的に情報公開する意志は見られなかった。

 

A        県のシーガイアへの傾斜

宮崎県はシーガイアの側面支援のため、300億円以上を掛けてシーガイア周辺の道路を重点的に整備し、「すべての道はシーガイアに通ず」とまでいわれた(『AERA』2001.3.5号)。

県は「シーガイアを守る」として県主催の会議なども悉くシーガイアでの開催となり、他の観光事業者からの不満も増大した。

 

B        県知事の対応への疑問

シーガイアの破たんにより、宮崎県の出資金はまったく紙くずとなり、リップルウッドの約束の反故に伴う200人を超える解雇者の発生、地元金融機関である宮崎銀行も138億円の貸し倒れ引き当てを余儀なくされ創業以来初の赤字決算となるなど、宮崎県の経済界は大きく混乱した。

松形知事は当初は「シーガイアは全国のモデルリゾート、バブルとは無縁」と語っていた (『朝日新聞・西部版』1998.3.18)。しかし、その後経営悪化を受けて、「政治生命をかける。本来、変化以前に経営努力に取り組むべきだった」と述べていた(『宮崎日日新聞』1999.12.18)。しかし、シーガイア破綻時の記者会見では「運営は継続される、私の責任が動向ということはない」と開き直った。(『朝日新聞・西部版』2001.2.20)結局“政治責任”は取られることなく、松形知事は2003年の7月に85歳で任期を全うし、2004年5月には勲一等旭日大綬章の叙勲を受けた。

 

C        宮崎県の具体的責任

まず金銭面については、資本金の7,500万円が100%減資された結果全額損失となった。また、92年に20億円、94年に40億円の無利子貸付、「国際コンベンションみやざき基金」から拠出した25億円億円も損失となった。また宮崎県が宮崎市とともにシーガイア周辺に行った税金投入は300億円以上といわれ、本来の優先順位がねじ曲げられたことは否めない。また県が音頭を取った結果、市町村も宮崎市の

固定資産税の延滞金2億1,000万円を始め北郷町や高岡町も延滞金の放棄に応じざるを得なかった。また県はたシーガイア従業員の継続雇用を掲げていたが、結局は132人が新会社への再雇用はされず、解雇の憂き目にあった。

また地元経済界にも大きな影響を与えた。宮崎銀行はシーガイアグループへの債権134億円が回収不能となり初の赤字決算となった。また、売り掛けの99%以上を放棄せざるを得なかった企業も出るなど、取引企業約700社にも大きな影響を残した。

このように県だけでなく、他の自治体、民間企業などへも大きな爪痕を残してしまった。

 

 

V まとめ

確かにシーガイアは第3セクターといっても民間企業であった。しかし、宮崎県がそこに“観光宮崎”の夢をかぶせて計画を肥大化させていった結果がシーガイアの破たんであった。

観光産業は「総合産業」ではあるが、これほどまでに宮崎県を混乱させ金銭的経済的にも多くの負担を県民に強いる結果となったことは猛省すべきことであり、このようなことを繰り返すことは「観光業」という業種自体が、少なくとも宮崎県民から支持を失うことになりかねない。特に松形知事の対応は単なる観光対策の失敗のみならず政治不信を助長した側面も含め、大きな問題であったと思う。

宮崎県のような地方の観光がいかにあるべきか、過大な夢を見ず足下を見据えた観光戦略が以下に重要かという2点について考察するにあたり、シーガイアの問題は極めて象徴的な問題であったと思う。今後はこのような失敗を繰り返すことのない観光戦略を持つ必要があり、それについては別章で述べていきたい。 

以 上

 

資料  シーガイア倒産時点の第三セクターの破綻状況(上位10件)

 

破綻時期

会社名

都道府県

業種

負債総額

(億円)

2001

2

※フェニックスリゾート

宮崎県

リゾート経営

2,762

2000

9

むつ小川原開発

北海道

工業用地造成開発

1,852

1999

9

苫小牧東部開発

北海道

工業団地開発

1,423

1998

10

泉佐野コスモポリス

大阪府

地域開発

607

1988

12

北海道漁業公社

北海道

漁業水産加工

138

1998

9

ウラウス・リゾート開発公社

北海道

リゾート開発

135

1998

2

秋田県木造住宅

秋田県

建売住宅分譲

134

2000

4

武尊レクリエーション

群馬県

スキー場経営

118

1999

11

千歳美々ワールド

北海道

不動産分譲

42

 

※フェニックス国際観光、北郷フェニックスの3社合計は3,261億円。

 

2001.2.19 『朝日新聞・西部版』参照