府県制度の制定過程から得る教訓

 

大学院公共経営研究科

45031034-5 西 村  務

 

 

(1)   はじめに(問題意識)

府県制度は、先般の政府の第27次地方制度調査会答申「今後の地方自治制度のあり方に関する答申」の中にも述べられているとおり、「戦前の広域的地方制度である府県制から地方自治法の体系へ、そして地方分権一括法による機関委任事務制度の廃止による自立した広域自治体へと変遷してきた」。

制度の導入から今日に至るまで、時代の変遷とともに、その性格を大きく変えてきた府県制度は、今後どのような方向にそのあり方を変えていくべきなのであろうか。その際、府県制度の歴史から学ぶべきものはないだろうか。制度の導入に際には、どのような議論が交わされ、いかなる制定過程を経たのか。

このような問題意識を念頭に置きながら、このレポートでは、極めて大まかにではあるが、明治中期における府県制度の制定過程に着目しながら、制度の導入の際に、どのような議論がなされたのかを明らかにし、地方制度においても構造改革が求められている現在のわれわれにとって教訓とすべき事柄を探求することを目的とする。

以下では、まず廃藩置県から三新法に至る状況を概観し、つづいて府県制の制定過程を見ていくこととする。(以下、特に引用する著作を示す場合を除いて、地方自治百年史編集委員会編『地方自治百年史』1992年を参照した。)

 

(2)   廃藩置県および三新法制定後の府県制度

1871(明治4)年7月に断行された廃藩置県は、まず「廃藩」だけが行われ、区域の統廃合と、新府県の機構の整備は、それに続いて、次第に行われていった。

廃藩置県は、従来の藩をそのまま県に置き換えただけであり、そのときに存在した261藩を一応そのまま県としたものであったから、従来からあった3府45県を加えて、府県の数は、3府306県に達したのであった。

この後、新府県を新しい地方行政の区域として整備していくことを目的とした府県の統廃合が、順次進められていった。それと並行して、府県の統治機構も追々整備されていった。

しかしながら、その後、廃藩置県をはじめとする諸制度の導入が、旧来の地方の実態を無視した余りに性急な中央集権体制の強行であったため、さまざまな摩擦を呼ぶこととなった。不平士族の反乱、農民の一揆反抗が頻発し、とりわけ三重県を中心とした伊勢暴動は政府に衝撃を与えたとされている。

性急な中央集権体制整備の反省から、政府においては、国民になじみの深い旧来の制度や伝統をとり入れながら新しい社会に対応させようとした手直しが始められることになる。その動きを、政府にあって主導したのが、当時の内務卿、大久保利通である。

大久保内務卿は、1878(明治11)年に府県会規則をはじめとする、いわゆる三新法を、地方官会議、元老院の議決を経て制定させたが、それに先立って、三新法制定の必要性について太政大臣三条実美あて上申した意見書「地方之体制等改正之儀上申」の中には、行政区画、地方団体の性格についても述べられている。すなわち、「府県郡市ハ行政ノ区画タルト住民社会独立ノ区画タルト二種ノ性質ヲ有セシメ」るべきものであると述べているのである。

このような大久保の意思が反映された三新法の制定により、わが国においては、初めて統一的な地方制度をもつことになり、府県は、町村とともに純然たる国の行政区画ではなく、「地方団体」として存立が認められ、不完全な形ながら、自治団体としての第一歩を踏み出すことになったのである。

 

(3)   府県制の制定過程

三新法に代わる新たな地方自治制度の立案作業が本格化したのは、1873(明治16)年秋からであったといわれるが、その制定過程で中心的な役割を果たした内務大臣山縣有朋は、憲法の施行、国会開設に先立ち、まず地方制度をつくり、地方自治の運用に相当の訓練を積み、国民の間に地方自治を通じて公共心を養う必要があると考えていた。そして、山縣内務大臣は、当初は、町村制ののみの整備を検討していたものの、内閣雇ドイツ人法律顧問アルバート・モッセの提言を受け入れ、市制、町村制とともに府県制も含めた、地方制度全体の体系的確立を目指していくこととなった。

山縣に強い影響を与えたモッセの提言は概略次のようなものであった。すなわち、@憲法制定に先立って地方自治制度を確立すべきこと、A単に町村法に限定せず地方制度全体の体系を確立すべきこと、B(略)。

モッセの進言をうけた山縣にとっては、市制、町村制が制定、施行された後は、郡制と合わせて府県制の制定、施行が進められなければならなかったが、郡制、府県制の制定、施行は、市制、町村制以上に難航した。審議過程で、府県自治に対する反対論者から、府県自治に対する時期尚早論やそもそも府県は不要であるといった府県廃止論が展開されたからである。次にその制定過程を概観する。

山縣を委員長とする地方制度編纂委員会が作成した府県制案(いわゆる第1次案)によれば、府県は法人であると明記され、府県会の権限が包括的に定められ、条例制定権も認められるなど、最終制定されたものに比べると自治的色彩の強いものであった。

しかしながら、この第1次案が元老院の付議にかかると、院内の読会審議においては、府県制そのものに対する批判が出るなど、議論は根本論の段階に終始したのであった。

元老院における、当時の府県制に対する批判を見ていくと、大別して2つの意見があったとされる。すなわち、廃案説と時期尚早説であり、両説はさらに、それぞれ2つの立場に分けることができる。

廃案説には、@府県が元来行政区画で自治体ではないから府県制は無用であるとするものと、A府県に自治を与えれば、ひいては国政にも自治を要求する勢いを生み、ついには国体を破るにいたるであろうとするものがあった。

また、時期尚早説には、@憲法を始め各種の重要法律があいついで施行される際に、府県制までも制定公布することは混乱をきたすから市制、町村制の施行をみておもむろにやればよいとするものと、A市制、町村制すら今日の民度に照らして尚早だと考えられるのに、それよりも広汎複雑な府県にまで自治を与えるのは尚早だというものがあった。

これら元老院内の批判に対し、山縣は制定の必要を説くなどしたが、元老院は議決せず閉会したため、第1次案は内閣に返上されるに至った。

ところで、第1次府県制案に対する批判は元老院からだけでなく、政府部内からも出された。法制局長官井上毅から出された『府県制に対する杞憂』がそれである。その中で井上は、町村郡市の自治体はよいが、府県を自治体とすることは中央政府に対する影響を考えると、ついには国体国憲をも破壊するに至るであろうという旨の論述を行っている。

これらの議論をみると、府県に対して自治を認めることに対して、相当の懸念が元老院内、あるいは政府部内においても存在していたことがわかる。そして、これら府県自治に対する警戒感は、当時盛んとなっていたいわゆる自由民権運動の経験からきているものと考えられる。

その後、政府は、府県制の改正案(いわゆる第2次案)を作成した。第2次案は、自治の観点からは、第1次案から相当後退したものとなった。

第2次案では、第1次案で明記されていた府県の法人性、府県条例の制定権、府県の住民の町村制に準ずる権利義務規定等は全面的に削除され、府県会の権限についても、第1次案で包括的に規定されていたものが、明示的に限定して規定された。

これらの内容を有する第2次案が、元老院(のち枢密院)の議決を経て府県制として制定されたのであった。

この府県制と、同時に制定された郡制の制定により、わが国の地方制度は体系的な成立をみることとなった。

 

(4)   わが国の地方分権改革への教訓

以上のとおり、廃藩置県から府県制の制定過程を概観してきた。

ひるがえって、地方分権改革やその一環である市町村合併が進行する現在のわが国の状況に目を転じてみると、府県についても、第27次地方制度調査会答申にあるとおり、時代環境に対応した変容を求められている。

このような中にあって、府県の今後のあり方を考えていく場合、当時の状況の中に教訓となるべきものがあるとするならば、地方制度整備の際、府県制郡制の制定をも求めた内閣法律顧問モッセの進言であろう。

「町村ノ制度ト上級自治体ノ組織トハ首尾関聯シテ相離ルヘカラサルモノアリ」(地方自治百年史 1992年より孫引き)と説き、町村制に限定せず地方制度全体の体系的確立の必要性を説いたモッセの主張は、市町村合併が進行する現在においても当てはまるものである。なぜなら、市町村合併が進行し、規模・能力が向上した市町村ができていく中、府県、市町村を含めた地方制度全体を見据えた上で、府県、市町村のあり方を考えていくことこそ重要であると考えられるからである。

明治期に確立された地方制度の体系は、地方行政制度と地方自治制度を表裏一体に張り合わせた制度であったとされる。(西尾 2001年)そのような地方自治制度は、集権・融合型地方自治制度のひとつの典型として位置づけられたものであった。(西尾 2001年)

しかしながら、今般の第1次分権改革によってわが国の地方自治制度を集権・融合型として特徴付けてきた市制町村制以来の機関委任事務制度が全廃されたことで、地方行政制度と地方自治制度を表裏一体に張り合わせてきた従前の地方制度はほぼ完全に解体されたと評されている。(西尾 2001年)

であるならば、地方行政制度から切り離されたわが国の地方自治制度は、新時代にふさわしい新たな地方自治制度が構想されるべき時期に来ているのではないかと思われるのである。そして、その際には、先に見た明治期と同様に、市町村制度のみを検討するだけでは不十分であるといえる。

 

(5)   まとめ

したがって、新しい地方制度を考える際には、基礎、広域各自治体のあり方を体系的に考える必要がある。

新しい地方制度確立の問題は、ひとり府県だけの問題にとどまらない。同時に、市町村だけの問題にとどまるものではない。

地方分権改革に総称されるさまざまな行財政分野における改革が進められる今日、明治国家形成期と同様、新しい時代に向けた新しい体系的な地方自治制度の構想が求められているといえる。

 

 

 

 

(参考文献)

     27次地方制度調査会答申『今後の地方自治制度のあり方に関する答申』(総務省ホームページ 2003年)

     地方自治百年史編集委員会編『地方自治百年史 第1巻』(地方自治施行四十周年・自治制公布百年記念会 1992年)

     西尾勝『行政学(新版)』(有斐閣 2001年)

 

(以 上)