「公共性と住民自治」

早稲田大学大学院公共経営研究科

450410511 中山 雄二

 

1 はじめに

本論の目的は、社会の原点とも言える「公共性」の意義に立ち返り、さらにそこから導き出される「住民自治」の必要性について論述することである。2節で、公共性とそれを発現する手段としての「協働」について述べ、3節で、協働の一つの形態である住民自治について述べることとし、4節をまとめとする。

 

2 公共性と協働

2.1 社会の発展と「公共性」

「科学技術は…人々の生活を物質的に豊かなものにしてきた。特に、18世紀の産業革命以降…科学技術は加速度的に発展し、人々の健康、経済的な豊かさ、生活の便利さは大いに向上してきた。」「…一方で、近年、…新たな社会的課題が明らかになっている。」(科学技術白書 2004 p4p9

平成16年度版の科学技術白書がその第1章で触れていることに象徴されるよう、近年の技術・経済の発展などがもたらす急激な社会の高度化は、我々に豊かさ、利便性を提供する一方、様々な社会的課題をも引き起こしている。その課題とは、地球環境問題、精神的疾患・自殺者の増加、治安の悪化などに代表される、社会の安全・安心が脅かされつつあるという懸念である。我々は社会の高度化の持つ二面性に直面して、社会発展の本来の意義を再確認する必要に迫られている。

社会の高度な発展は、自らの欲望や利己心を実現させるためのものであるのか、それとも、自分も他人も含めた、社会全体のためのものであるのか。おそらく大部分の人は、後者に賛成することであろう。この社会全体のため、という感情は、おそらく「公共性」と呼ぶことができる。社会の急激な高度化に目を奪われ、次第にその波に飲み込まれて行きそうになる我々にとって、公共性について改めて考えることは、原点に戻るという意味で、欠くことのできないものであると考える。

 

2.2 公共性とは何か

「公共性」は、あいまいに使われることの多い言葉である。極端な場合、政府行為=公共性とされることすらある。困難ではあるが、ある程度の定義付けをする必要がある。

片岡は、公共性について「人間の生々発達とそれによって確保される尊厳及び幸福」を目的とし、それを追及する過程において現れてくるものである、としている。(片岡 2002 p12)本論ではその定義に従うが、あえて若干の注釈を加えると、生々発達とは、個人的欲求が人格的・客観的理想と一致するよう、個人個人が向上発展すること、孔子が言う「心の欲するところに従えども矩を踰えず」という状態を目指すことであり、それにより個人の尊厳と、真の幸福が生じるとされる。

人格的・客観的理想とは、言葉では言い表せないものではあるが、本来の人間性の実現であり、またひとつの解釈として、様々な個人的欲求が最もよく調和された状態、とすることもできる。個人的欲求の調和とは、個人の内面にとどまらず、人間関係が最もよく調和された状態をも意味している。人間は、他の人間とのかかわりにおいてしか生きていけない、社会的存在でもあるからである。

人間関係が最もよく調和された状態の理想像を突き詰めれば、人類全体、あるいは生きとし生けるもの全ての調和を志向するものでなければならない。社会全体のためという感情が公共性の一要素である、ということはここから導き出される。

なお、公共性の追求によって生じる幸福が、真の幸福であるとすれば、欲望や単なる利己心の実現は、幸福の前段階、あるいは一時的な欲求を満たしたに過ぎないであろう。両者の間には質的な差が存在する。

 

2.3 公共性と「協働」

このような公共性は、あくまでも個人の心の内から現れてくるものである。では、なぜ先ほどのような、政府行為=公共性とするとらえ方が存在するのであろうか。

先ほどの、個人的欲求の調和=公共性、という関係を社会に置き換えてみると、社会に表出される欲求の調和=(社会の)公共性、とすることもできる。政府は、種々の社会に表出される欲求を、権威と強制力によって「調和」させ、決定を下す機関1)であることから、その権能をもって、政府を公共性の源泉としたものと考えられる。

しかし、政府の決定が果たして公共的であるか否かも、決定する組織等の意志、最終的には組織に属する個人が公共的であるかどうかにかかっている。権能はあっても、意志が公共的であるとは限らない。政府の行為=公共性と短絡的に定義するのは、適当ではない。

欲求を「調和」させる機関である政府に属する、政治家及び公務員に公共的資質を要求するのは、社会の公共性のためにも欠くべからざる条件である。しかし、それだけでは十分でない。仮に政治家・公務員が十分に公共的で、情理を尽くした説明を市民に行ったとしても、市民はそれを頭で理解したに過ぎない。場合によっては理解しようとせず、不満を募らせるだけかもしれない。

欲求を調和させる政治過程に市民を巻き込むことによって、初めて市民は、公共性について考え、実を伴った理解を得ることができる。政治による代理行為に任せていては、そのような効果は期待できない。一方、政治家・公務員も、市民との直接の意見交換の中でこそ、市民とともに成長し、自らの公共的資質に目覚めることが可能となる。

政治過程に市民を巻き込む「協働」は、公共性の発展という原点回帰を試みた場合、今後の政治制度に欠くべからざる概念になると考える。公共性が個人によって担われる、とすれば、それぞれが政治過程を含めた公共過程に関わり、公共の担い手であることを自覚する必要がある。さらに、個人は、そのような関わりの中において、生来の公共性をも発展させることができる。2)

 

1)どの範囲まで欲求を政府が調整すべきか、つまり政府の役割はどの範囲までが適当か、というのも問い直されるべき課題である。

2)もし公共選択論のように、あくまでも人間を利己的なものとして見なせば、社会の発展は、あり得ないのではないだろうか。

3 住民自治について

3.1 住民自治の意義

協働ないし市民参加は、通常、行政主体のレベルが小さいほど容易になる。国政より地方自治に、よりよく適合するものであろう。これ以降は、地方自治の中でももっとも市民と公共・政治が接近したレベルにある、「住民自治」に焦点をしぼることとする。ここでは、その意義について、「直接民主制」との関係を軸に述べたい。

協働とは、公共過程に市民を巻き込むものであるが、通常そこには、政治・行政と市民という区別が依然として存在する。その区別が完全に消滅した状態が、直接民主制であり、これは最もよく個人が公共過程に関わることのできる形態であると言ってもよい。

残念ながら、直接民主制は、衆愚政に陥りやすいデリケートな制度であり、人口規模からしても現実性はない。そこで、一般には代議民主制が採用される。これは、市民が代表者を選挙により決定し、その代表者に政治の実行を委ねる制度である。民主的な政治のコントロールは可能であるが、市民の政治参加が選挙のみに限られれば、公共性との関連性は極めて薄くなる。現実問題としては、代議民主制をベースにしつつも、その中に協働的要素を取り入れて行く必要がある。

ところで、現実を顧みると、投票率の低下に見られるよう、政治的無関心3)は、その度を増している。この状況がさらに進行すれば、政治の運営は一部の限られた人間の手によるものとなり、衆愚制治及びその裏返しである独裁政治と実質において変わらなくなる。この場合、民主主義と公共性は、さらにかけ離れたものとなるばかりか、政治に対する民主的統制も失われる。協働は、市民の政治への参加意欲・関心を高め、民主的統制を可能にする手段でもある。

さて、協働的要素を取り入れるための手段として、住民自治が極めて重要であると位置付けることができるのは、その自治組織の中で、最も徹底した協働の形態である直接民主的な体制を構築できる可能性があるからである。自治的コミュニティ内のような限られた人口・地域の範囲内で、なおかつ致命的な利害対立が生じにくい状況であれば、なるべく多くの成員が意見を述べ、またその決定を直接執行することも可能である。加えて、地方自治体は、国土にくまなく設置されていることから、その元に構築される自治的コミュニティは、多くの人々に影響を及ぼすことができる。さらに自治体とコミュニティとの係わり合いにより、政治・行政も公共的な開かれたものになり得る。

 

3)政治への無関心が高まっているのは、自らの意志が反映されないという無力感に加え、後述する、社会の発展による職業の専門化及び私的・公共領域の分離も背景にあるものと考えられる。政治という公共領域は、専門家に任せてしまったほうが効率がいい、ということである。

 

3.2 住民自治とソーシャル・キャピタル

ここで住民自治について、若干の説明を加えておきたい。

地方自治の原則として、「住民自治」と「団体自治」の二つの概念が存在する。住民自治とは、住民自身の手により、その責任で自治体の行政を行うというものであり、団体自治とは、地方自治が国から独立した団体において、団体自らの意思と責任で自治行政を行うというものである。車の両輪のような概念であるが、公共性と直接関わりを持つのは、住民自治の方である。なお、地方自治は、「民主主義の学校」と呼ばれる。自治体行政に市民が参加することによって、その「公共心と聡明とを増進しうる」(石橋湛山)と従来から考えられている。

住民自治と、公共性の関係を示す興味深い概念として、「ソーシャル・キャピタル」がある。ソーシャル・キャピタルとは、論議の火付け役となったパットナムの定義によると「人々の協調行動を活発にすることによって社会の効率性を改善できる、信頼、規範、ネットワークといった社会組織の特徴」(ソーシャル・キャピタル 2003 p7)である。パットナムは、イタリア、アメリカにおける実証研究によって、信頼に基づいた社会的繋がりが、民主主義のパフォーマンスを高め、社会の安全性・効率性などに寄与する、とした。

内閣府の調査によると、我が国でもボランティア活動行動者率と犯罪発生率、失業率との間には反比例の関係、出生率とは正比例の関係が見られるという。(ソーシャル・キャピタル 2003 p12)我が国におけるソーシャル・キャピタル研究は、まだ著についたばかりで、十分なデータの蓄積があるとは言えないが、少なくとも地域社会の安全・安心には好ましい影響を及ぼすと考えられている。

住民自治を通じて、社会的繋がりが強まれば、ソーシャル・キャピタルの蓄積が生まれる。これにより民主主義のパフォーマンス、社会の安全性・効率性が向上することを、公共性の増進した結果と考えれば、ソーシャル・キャピタル論は、住民自治が公共性を高める機能を有することの根拠としてもとらえられる。

これまで地方分権は、国から地方への権限移譲という、団体自治を拡充する方向で進められてきた。しかし、地方制度調査会も平成1511月の「今後の地方自治制度のあり方に関する答申」で、「さまざまな方策を検討して住民自治の充実を図る必要がある」と、住民自治の必要性について触れている。団体自治から住民自治へと、自治を深化させるための方策が、今後は求められる。加えて、自治体と自治的コミュニティとの協働のあり方も、検討すべき問題であろう。

一方で、従前より議論されている団体自治の拡充−地方分権についても忘れてはならない。住民自治は、団体自治のしっかりした枠組みがあってこそ、初めて有効に機能し得るものである。

 

4)これは、住民自治に限らず、協働を含めた公共領域への市民参加全般について、言えることである。

 

3.3 住民自治をめぐる論点

住民自治・自治的コミュニティの重要性が主張される一方で、こうした政策に対する疑問点も存在すると思われる。ここでは考えられる疑問点について述べ、それに対する見解を述べることで、住民自治の意義を補強する材料とするよう試みたい。以下3点ほど、論点を設定する。

(1)直接民主的制度を伴う住民自治は、民主的ではある一方、効率化とは対立する制度ではないのか

(2)対立するとした場合、巨額の累積債務等、危機的状況に陥っている行政は、合併・リストラなどの効率化を優先すべきではないのか

(3)時間的余裕が欠乏している現代社会において、煩わしいとも思われる住民自治が、果たして根付くのか

まず、(1)は、効率性と民主制とを対立するものとしてとらえた結果である。これに対しては、効率性を意思決定の「「能率」とサービス供給の「効果」に分けて考え」る必要がある。(岩崎 2004 p21)公共サービス供給に市民が直接参加することで、自分たちが必要とするサービスを適正に選択することができる。「能率」は、落ちるかもしれないが、行政が一元的にサービス供給するよりは、はるかに「効果」は高いのではないか。ソーシャル・キャピタル論において、社会的繋がりが民主主義のパフォーマンスを高め、社会の効率性に寄与するとされているよう、住民自治と効率化の要請は、運用の仕方によって必ずしも対立しない、または相乗的なものとなり得ると考える。

自治的コミュニティが担い得る公共サービスは、限られたものである。5)効果をさらに大きなものとするためには、先述したが、多くの公共サービスを担う基礎自治体と自治的コミュニティとの連携の仕組みの確立、またその連携が多くの実を結ぶための、基礎自治体のさらなる権限の拡大が必要である。

(2)についても同様である。さらにここで触れておきたいのは、行政の危機的状況の根本原因はどこにあるか、また合併・リストラ等の行政組織の効率化が、それに対する根本的な解決策になり得るか、ということについてである。

財政赤字・少子高齢化・過疎化などの自治体行政の危機は、実は、社会の発展に伴う効率化に連動するものでもあると考えられる。この場合の効率化の進展とは、@職業の高度化・専門化A都市への人口の集中B私的領域と公共領域の分離などの社会現象によって表される。

行政の財政負担の増大は、@職業の高度化・専門化により、特定領域への個人の能力・資源の集中化と、時間的余裕の欠如が進み、これによりB私的領域と公共領域の分離が生じ、その公共領域を行政が肩代わりする形で、機能を一方的に拡大させてきた過程において発生してきたもの、と考えられる。(宮脇 2003 p2324)その他、少子高齢化は@職業の高度化・専門化に伴う時間的余裕の欠如及びA都市への人口の集中による核家族化と、育児を補助してくれる大家族の消滅、といったことによって説明がつく。その他、さまざまな問題を効率化に関連付けて説明することが可能である。さらに言えば、こうした効率化により人間関係の絆が断ち切られようとしているところに、根本的な問題があるのではないだろうか。

このような問題に対し、行政組織の効率化で対処しようとしても、応急処置6)、または改革姿勢を世間に示す以上の意味は持たない。人間関係の絆を回復させるための開かれた仕組みとして、住民自治、自治的コミュニティなどを構築することは、根本的な問題解決のためによほど有効なのではないか7)、と考える。

一方(3)については、根付かせるのは困難と言うしかない。しかし、人材面から言えば、退職された方々は、住民自治の主な担い手となり得る。また、企業のCSRの一環としての支援や、NPOとの連携など、今後期待できる要素もある。また、学校と連携し、生徒・学生をコミュニティに積極的に取り込むことも可能であろう。8)

(3)について見解を述べれば、困難であるということに試みる価値が隠れており、だからこそ、あえて試みるべきである、ということになる。

5)コミュニティの担い得る公共サービスとしては、地域施設管理・身近な環境保全・地域福祉・教育文化活動・まちづくり・防災・行政への要望などが考えられる。

6)応急処置ではあっても、一概に必要性を否定するものではない。ただし、組織改革だけで全て解決すると考えるのは、短絡的である。また、組織改革が目的化することも避けなければならない。

7)一方、即効薬として捉えるのは無理がある。住民自治は、長い時間をかける必要があるからである。1970年代初めより先進的にコミュニティ政策に取り組んでいる三鷹市の例などを見ると、非常に長い時間をかけて住民自治・コミュニティを根付かせようとしており、今なお道半ばであると見受けられる。

8)教育の面から考えても、低学年のうちから地域社会と触れることは有益であろう。

 

4 まとめ

社会のため、という公共性は、個人によって担われ、また他人とのつながりの中で、他人を意識することによって発展する。公共過程、特にその主要な位置を占める政治過程に様々なアクターが関わることで、市民・政治家・公務員とも、相互の係わり合いの中で、公共性を増進し得る。

特に、社会の急激な発展の中では、個人にとっては、生来の人間性、という公共性を再認識することは必要である。また政府・行政にとっても、公共精神を高め、市民より信頼を勝ち得ないと、リーダーシップを発揮するのはより困難となるであろう。

こうしたことを背景に、協働の必要性が導かれ、さらにそれを最も有効に追求し得る手段として、住民自治の必要性が導かれる。今後、協働、市民参加、住民自治等の具体的あり方などについて、さらに検討を進める必要がある。

 

[参考文献、参考WEBサイト]

岩崎美紀子,2004,「基礎自治体改革の二つの命題−「民主性」と「効率」」,『月刊地方自治 第六八三号』,ぎょうせい,231

江上能義,1984,「J・エリュールのテクノロジカル・システム論」,『琉大法学 第34号』,琉球大学法文学部,134

片岡寛光,2002,『公共の哲学』,早稲田大学出版部

内閣府国民生活局,2003,『ソーシャル・キャピタル−豊かな人間関係と市民活動の好循環を求めて』,国立印刷局

西尾隆編著,2004,『住民・コミュニティとの協働』,ぎょうせい

西田幾多郎,1950,『善の研究』,岩波文庫

日本都市センター,2004,『近隣自治の仕組みと近隣政府−多様で主体的なコミュニティの形成をめざして』,日本都市センター

宮脇淳,2003,『公共経営論』,PHP研究所

文部科学省,2004,『科学技術白書 平成16年版』,国立印刷局

ルソー,『社会契約論』,1954,桑原武夫・前川貞次郎訳,岩波書店

片木研究室ホームページ,「地方自治名言録」より

http://www.f.waseda.jp/katagi/jitimeigen.html

27次地方制度調査会答申,総務省,2003

http://www.soumu.go.jp/singi/pdf/No27_sokai_7_4.pdf