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演習テーマ「地方分権の時代背景と進展理由」

 

(はじめに)

 地方分権改革の必要性は、1960年代の後半以降、自治体の首長やその全国組織、地方自治に関心をもつ研究者、一部の政治家から指摘されていた。しかし、それらは特定の政治的立場からの主張とみなされ、大きな共感を呼び起こすまでにはいたらなかった。

 ところが、1990年代に入ると、地方分権改革は政治の世界での共通の関心事となった。19936月には、衆参両院において「地方分権の推進に関する決議」が行われ、94年には、内閣の行政改革推進本部のなかに地方分権部会を設け検討が開始され、同年12月に「地方分権推進大綱」がまとめられた。地方分権推進大綱を基本に95年の通常国会には地方分権推進法が提出された。こうして地方分権は改めて新しい政治課題として脚光を浴び、地方分権推進委員会による具体的改革作業が開始されたのである。それでは、どうして1990年代に入り地方分権改革の大合唱が起こり、大きな時代の潮流となってきたのだろうか。ここでは、現在、地方分権改革が時代の要請となっている背景を考察して、なぜ1990年代に地方分権が進展していったのか、原点に立ち返り考えてみたい。

 

1.        中央集権型行政システムがもたらしたもの

1.1戦後復興

   戦後、経済の再建と国民生活の安定は、国家の重要な課題であり、先進経済国に「追いつけ、追い越せ」という目標を効率的に追求するため、中央政府の官僚制に権限を集中して政策や事業を企画し、一元的に実施する中央集権型の行政システムが実施されてきた。多くの国民の努力と中央集権型の行政システムにより、日本の近代化と経済発展は比較的短時間のうちに先進国の水準に追いつくことができた。

50年代後半に始まる経済成長は、60年安保闘争後に国民所得の倍増を掲げた池田内閣のもとで一段と推進された。このころ、中央省庁の直轄事業体制に加えて、特殊法人が各省の監督下で濫設されていく。また、その一方で、機関委任事務は62年に408件と、すでに戦後のスタート時点に比べて3倍近い件数となっていたが、60年代は一貫して増加し続け、74年には522件に達している。機関委任事務の増加は、それに伴う補助・負担金の創設を意味するとともに、自治体側の新たな負担を生み出した。加えて、自治体の事業を誘導するための奨励的補助金も、60年代には増加の一途をたどった。このようにして、60年代には、機関委任事務、補助・負担金などを手段とする国(中央省庁)、都道府県、市町村にいたるタテ系列の統制が一段と強化された。今日の大きな政治課題とされている地方分権改革、さらには行政改革の対象は、まさにこの60年代に創設された体制である。

しかしながら、この頃は、こうした中央集権型の体制に対し地方は批判的であったとはいえない。地方は、地域社会の工業化や行政施設の建設を求めて、補助金の獲得のみならず、各省の直轄事業、特殊法人の事業の誘致に奔走した。この時代、地方選挙とりわけ首長選挙では、「中央に直結した地方自治」がスローガンとして掲げられ、工場誘致をはじめとした地域的な経済開発や直轄事業、公団・事業団の事業誘致を目的に、いかに中央省庁及び有力政治家に「強力」なパイプを持っているかを選挙民に訴えて選挙が行われていた。従って、地方もこの中央集権型の行政システムに何の疑問も感じずに過ごしていたのである。

 

1.2革新自治体の登場

高度経済成長は、国民所得の向上をもたらしたが、同時に、全国各地に深刻な公害や環境の問題を生み出した。経済成長を優先させるあまりに、工場の廃液や排気ガスに対する備えはきわめて不十分であったのである。このような公害・環境問題の改善を求める住民運動や新たな開発に反対する運動が全国各地で展開されていった。また、人口集中の著しい大都市部においては、生活道路や上下水道、学校等の生活条件の整備を求める住民運動が展開されていった。大都市部への人口集中は居住環境を整備したうえで促進されたものではなく、無秩序な宅地開発が進行し問題を深刻化させた。

このような状況のなかで、「中央に直結した地方自治」に対して、「住民に直結した地方自治」を掲げる首長が63年の統一地方選挙後、次々と登場してきた。63年の市長選挙では横浜、京都、大阪などで、こうしたスローガンを掲げる市長が当選した。悪化する公害問題や生活基盤の未整備を前にして経済成長優先の政策に疑問を抱いた住民の勝利であった。国(中央政府)や地方の行政に従順で「もの言わぬ民」だった住民が革新首長の選出を通じて、政治に能動的に参加し始めたのである。こうした住民に支えられた革新自治体は、それまで「末端行政機構」としての色彩の濃かった地方自治に、自らの地域について自らが考えるという新たな次元を切り開いたのである。

 

1.3国と地方の関係

先にも述べたように、権限・財源・人間、そして情報を中央に集中させた中央集権型行政システムにより、日本の近代化は成し遂げられた。

しかしながら、その一方で、中央集権型行政システムは、都道府県や市町村で行われるはずの住民自治及び団体自治という機能を衰退させてしまったのである。70年代に登場した革新自治体により、「住民に直結した地方自治」が展開し始められたが、その数はまだあまり多くなかった。

   現在進められている地方分権改革に限らず、改革を進めるという以上、そこには現行体制になんらかの問題点が存在するという認識があるはずである。60年代に形成された中央集権的な国と地方の関係にはいかなる問題が存在していたのか、地方分権推進委員会の中間報告での指摘を基に整理しておきたい。

 

(1) 本来、対等・協力関係におかれるべき国と地方の関係が、機関委任事務制度と補助金行政の執行過程を通じて「上下・主従関係」におかれている。

(2) 本来、地域住民から公選された首長として「地方の代表」に専念すべき知事、市町村長が、機関委任事務の執行者としての「地方の機関」としての役割を負わされ「二重の役割」を担う存在となっている。しかも「地方の機関」としての役割が都道府県知事で8割、市町村長で4割という状況である。

(3)本来、国、都道府県、市町村のそれぞれの行政責任は明確であるべきであるのに、国が考え、地方が行い、国と地方が一体で責任を負うという集合・融合の構造となっているので、どこに行政責任があるのか不明確である。

(4)本来、価値の多元化、ニーズの多様化した都市国家では多様な物差しで政策形成が行われるべきであるのに、全国を一つの物差しで測るナショナル・ミニマムの実現が求められ、自治体の裁量権が狭く、コストと時間の浪費が行われている。

(5)地方が事業執行をする場合も、国からの通達やガイドライン、指導指針などに縛られ、地方に裁量権がなく、地域に応じた施策の展開ができない。

 

このように、地方は国の地方機関、出先機関としての色彩が濃く、自ら地域の特性に応じた施策を展開することよりも、むしろ国から委託された事務を国の考え・方針に従って執行する事業執行官庁としての役割が強くなってしまい、何をするにしても、まず国にお伺いをたて、指示を仰ごうとする意識と習慣が作られ、自らが考えて地方自治を行うという意識が希薄になっていったのである。これらは、中央集権型行政システムによる多くの機関委任事務やそれに伴う必置規定、細かく定められた補助金行政の弊害である。

 

2 地方分権の社会的背景

第1章では中央集権型の行政システムがもたらしたものについて考察したが、この章では地方分権が時代の要請となった社会的背景についてみてみたい。      1978年に神奈川県において「第1回地方の時代シンポジウム」が開催され、神奈川県知事などが呼びかけた「地方の時代」は一躍流行語となった。その言葉が意味していたものは、国の出先機関的色彩の濃い府県を、真に広域的な地方政府へと改革し、市町村間の調整機能と高次行政機能に役割を限定して、自治の基盤を拡大しようとするものであった。さらに、「府県への市町村参加」「国政への府県参加」が提唱されたように、中央から市町村への下降型地方自治制度を、市町村から国政への上昇型地方自治制度に変革しようとするものでもあった。シンポジウムの基調講演で神奈川県の長洲知事は、高度経済成長の終わったいま、「地方」の名のもとに埋没してきた地域固有の価値を復権させるとともに、巨大技術による地域の発展に替えて、適正技術によるそれを追求すべきだと訴えた。また、同時期に、地域の固有の経済的・文化的価値を復権させ、それに基づいた地域づくりを訴える「地域主義」なる言葉も盛んに使われた。この「地方の時代」の提唱は、改めて府県のあり方に大きな問題を提起し、今日の地方分権改革の底流を形成したと言われている。

また、そのころから、中央政府の財政は危機的様相を深め、81年には財政再建のための行財政改革を図るとして、第2次臨時行政調査会が設置され改革が試みられ始め、第1次臨時行政改革推進審議会に引き継がれていった。これら第2臨調等では、中央政府から地方への移転支出の削減と地方自治体の経常経費の抑制指導が行われ、地方は組織定員等の見直しを求められる一方で、社会福祉関係補助金の補助率カットなど、中央政府の財政スリム化を主眼とした補助率削減により、地方に負担が転嫁され、財政的に圧迫されていった。中央政府の財政逼迫を受けて地方への統制が強化される一方、「民間活力」による都市の開発やリゾート開発が強調され、重厚長大型産業から軽薄短小型の産業への転換がいわれ、急速に第三次産業の比重を高めていった。その結果、一段と東京に経済的中枢機能が集中することになるとともに、地域間の経済・社会的条件の格差は一段と拡大した。これらのことは、地方に否定的な影響のみを与えたわけではなく、各地の自治体が「地方の自立」とは何かを探り始めるという影響も与えた。中央の補助金に頼らず創意工夫を重ねることは、地域の潜在的な活力の再発見につながった。こうした「地域の自立」運動の展開は、全体として中央集権体制への疑問を深めることに繋がっていった。

 

3 地方分権の必要性

1章で中央集権型の行政システムがもたらした国と地方の関係、第2章では80年代までの社会経済情勢について概観した。この章では、90年代初頭に、財界、政界、地方自治関係団体、学界、報道界など、官界を除くほぼ全ての各界からまるで大合唱のように地方分権を求める声が出てきた理由について整理してみる。

 

3.1変動する国際社会への対応

中央政府主導の近代化は、地域社会のこまごまとしたことにまで中央政府が介入し、いやおうなく内政重視型となった。その結果として、中央政府は、冷戦の終結等に伴う国際社会の変動に的確に対応できなくなっていた。高度経済成長により先進国の仲間入りを果たした日本は、国際的な民族紛争や地球環境問題など全世界が協力して解決すべき課題に対し、その経済力に応じた国際貢献、責任をこれまで以上に積極的に果たすよう求められている。このため、国にしか担い得ない国際関係調整への対応能力を高めるために、中央政府を国内問題の些細な事項から解放し、国家の中央行政機関としての役割を再構築する必要がある。

 

3.2東京一極集中の是正

   高度経済成長の中心である東京には、軽薄短小産業へのシフトにより、政治・行政はもとより、経済、情報、金融、サービスなどあらゆる機能が集中・集積し、ますます巨大都市圏が形成されていった。

その一方、地方では、特に農山漁村では、人口の流出が著しく、地場産業が衰退し、農林水産業の担い手不足が常態化し、いまや国土の約半分にあたる地域が過疎法の保護なしでは自治行政が成り立たない、公共事業なくして生活なしという状況に陥ってしまった。欧米への「追いつき・追い越せ型近代化」をめざした日本は、低賃金・長時間労働にも耐え経済大国を作り上げたが、こうした弊害も生じさせてしまった。このため、地域の産業、行政、文化を支える人材を育て、地域社会の活力を取り戻す必要がある。こうした思いは、関経連などの地方の財界の人たちに始まり、今では財界全体の動きとなった。

 

3.3高齢化社会の到来

   我が国では他国に類をみない急激なテンポで人口の高齢化が進み、その反面では合計特殊出生率の低下に伴う少子化が進行した。日本が国連統計にいう「高齢化した社会」(65歳以上人口が7%に達した段階)に入ったのは、70年であり、95年には14%を超えた。このような急激な人口構成の変動に対応する各種サービスの供給体制の整備が急務となっており、高齢者に向けては、互いに連携した保健・医療・福祉及び生涯学習関連のサービスが、幼児・児童に向けては保健・教育関連サービスの再編成が求められている。しかしながら、一口に高齢化といってもそのスピードは地域によって異なり、あまり進行していないところもあれば、高齢化率が50%を超えたところもある(山口県東和町20043月末の高齢化率50.08%)。中央集権的にナショナル・ミニマムの基準を設定したサービスの提供は不可能となってきたのである。また、高齢化はだれしも避けられない問題であり、今後ますますその進行が予想されることからも、生活に最も身近な自治体の強化が必要となってきている。

 

3.4個性豊かな地域社会の創造

   我が国は高度経済成長により先進国の仲間入りを果たし、多くの分野でのナショナル・ミニマムの目標水準を達成し、平和で安全な社会を築いた。にもかかわらず、多くの国民は日常生活の場で真の安らぎと豊かさを実感できないでいた。その原因の一端は中央集権型行政システムの下での全国一律の統一性と公平性が過度に重視され、地域社会の諸条件の多様性が軽視されてきたことにあった。行政サービスへの住民のニーズは多種多様になり、こうした多様化した価値観に対して全国一律の価値基準を押しつけようとすることは、もはや時代錯誤になってきていた。ナショナル・ミニマムを超える行政サービスは、地域住民のニーズを反映した地域住民の自主的な選択に委ねるべきである。その結果として、生じる地域間格差は解消されるべき地域間格差ではなく、むしろ尊厳なる個性差と考えるべきである。時代の流れは「画一から多様へ」と移り変わり、中央集権の画一的な行政システムを住民主導の個性的で多様な行政システムに切り替える必要が生じてきたのである。

 

4 まとめ

   戦後、日本国憲法とともに地方自治法が定められ、地方自治の重要性が謳われたのではあるが、それは戦後復興により後回しにされ、中央集権的な行政システムにより、国の地方機関のように地方は運営されてきた。それぞれの行政目標には優先順位があり、戦後復興を優先させるのは、いたしかたないことだとは思う。その後、急速に経済が成長し、物質的豊かさを手に入れたため、心の豊かさ、地域特性の発揮等に国民の目が向き始め、地方分権が提唱されたのではないだろうか。経済成長の途中では、そのようなことに目を向ける余裕がないと思う。地方分権への要請が高まっていった時代背景及び地方分権が必要な理由は先に述べたとおりであるが、ここにきて急速に進展していった理由については、いろいろな側面が1990年代にうまく重なり合い、分権改革が加速していったのだと思う。

しかしながら、あえて地方分権を最も加速させた要因を一つあげるとすると、私は、急激に進行した少子高齢化社会の到来あるいはそれらに対する危機感だと考える。政府の統計と今後の予測によると、日本社会は2020年には26.9%の高齢者を抱えることになり、介護を要する高齢者は2010年に390万人になるとされている。戦後、日本の福祉行政は、生活保護の金品給付を除くと、いずれも施設への収容を有力な行政手段としてきた。施設への入所は、「措置」という行政処分であり、長らく厚生大臣から知事ないし市長への機関委任事務とされてきた。このような福祉行政のあり方には、60年代の後半に疑問が投げかけられ、革新自治体は施設収容型福祉とは別に在宅福祉サービスに着手した。それは、生活の場を基本として人間として生きる権利の保障を試みるものであり、多くの人の共感を呼び起こし、各地の自治体で試みられた。高齢化が進むと当然のことながら、施設入所による福祉行政は成り立たなくなってしまう。施設の数、そのための財源も追いつかなくなってしまうのである。また、高齢化問題は、都市と地方では全く異なった様相を呈し、ほとんどその対策の必要のない都市部もあれば、行政のほとんどの力を高齢化対策に注がなければならない地方もある。まさに、地方が地域の特性を考慮したうえで政策を考えていかなければならない問題である。

国としても、中央集権体制のなかで設計し運用していた財政や福祉の制度が、いわゆる制度疲労を起こし、今後うまく機能しないのではないかという危惧を持ち始めたのは、少子高齢化社会の到来があったからだと思う。現在、国会では年金制度改革について議論されている。この改革の根底にも少子高齢化社会がある。いわゆる地方分権一括法が20004月に施行され、国と地方の関係は対等となり、それぞれの立場で行政を進めていかなくてはならないが、今後の地方行政には、少子高齢化・人口構成を念頭においた政策の展開が必要になってくると考える。

 

 

 

 

参考文献

「地方分権改革」市民の政府を設計する 沼田 良 1994年  公人社

「分権と地方行革」        坂田 期雄  1996年  時事通信社

「地方分権への道程」          成田 頼明   1997年  良書普及会

「地方分権と地方自治」         佐々木信夫   1999年  勁草書房

「未完の地方分権」霞ヶ関官僚と格闘した1300日 西尾勝 1999年 岩波書店

「分権型社会を創る@」      西尾 勝   2001年  ぎょうせい

「地方分権」第2版        新藤宗幸   2002年  岩波書店

「日本の地方分権」           村上        2003   弘文堂

地方分権推進委員会 中間報告         1996