シャウプ勧告前後の義務教育費国庫負担制度復活の経緯を整理する

 

江 口  和 美

 

1. はじめに

 義務教育費の国庫負担は、1950(昭和25)年の“シャウプ勧告”により、地方の自治を阻害するとして、一旦廃止されたが、1952(昭和27)年に復活した。なぜ、たった2年で復活することとなったのであろうか。その当時の文部省、地方自治体、国会などのそれぞれの主張や動きを整理することで、制度的瑕疵からくる制度変更であったのか、なにが原因であったのかを明らかにしたい。

 

2. 第二次世界大戦後の教育財政改革

1義務教育に関する法的整備と財政制度の課題

第二次世界大戦終戦後の最も大きな変革は、1946(昭和21)年に公布された日本国憲法の制定により、第26条で国民の「教育を受ける権利」の保障が法的に規定されたことが最も大きな変化であったといえる。そのうえに、教育基本法の第3条により、「教育の機会均等」が規定された。このふたつを根拠とし、教育基本法第10条や学校教育法第3条などで教育条件の整備を進めることを国に義務づけをし、国の財政負担責任とその原則を憲法第26条と地方財政法第10条などで明示したことは、大きな意味を持っている。

また、戦前においては、教育は国家事務とされていたが、義務教育費は基本的に市町村の負担義務とされており、財政負担は学校の管理・運営の権限を併せ持つものではなく、財政負担と行政権限が乖離していた。しかし、市町村の財政では義務教育費を負担することが困難となり、1940(昭和15)年に義務教育費国庫負担法ができ、教員給与費のみ解決をはかることとなった。それが終戦後、地方自治法や地方財政法、教育委員会法などの制定により、教育行政の地方自治の原則が法律により裏付けられ、国と地方自治体の関係や、教育行政権限のありかた、義務教育財政制度の構造は改革を余儀なくされた。

課題としては、@義務教育の管理と経費負担は地方自治体の責任(設置者管理主義・設置者負担主義)と確認されたが、財源保障をどうするのか、A義務教育の地方事務化、教育行政の地方分権化の下で、教育の全国的統一性と水準をどう確保・維持するのか、B先のAを実現する中で、戦後の教育行政の原則である「教育の法律主義」「教育の自主性尊重と指導助言行政」「教育行政の地方自治」などを踏まえた、国と地方自治体の関係を法制度としてどのように構想するのか、などがあげられる。

 

2シャウプ勧告直前の状況

新しく制定された憲法や地方自治法などにより、国と地方の財政負担の分担をはっきりさせ、地方自治の権限強化が目指されたが、実態は、新制度による行政事務と地方財政需要を増加させ、地方財源の不足が顕著となり、それに伴い、国庫補助金や負担金が増大し、結局は中央集権的行財政構造を存続させることにつながった。

もちろん、義務教育分野も例外ではなかった。例えば、地方財政法において、学校建設費の国庫負担が明示はされたが、予算確保が不十分で地方に過大な負担を強いていたうえに、1948(昭和23)年には、義務教育費国庫負担制度が一部改正をされ、それまでは、地方公共団体の実支出額の半額を国が負担する「実員実額制」であったものを、「職員ノ範囲定員及給与ノ額」を政令で定め、その定員定額の半額を国が負担する「定員定額制」に改正された。

従来の「実員実額制」は、地方で積み上げられた給与費の半分を国庫負担するもので、あくまで主導権は地方にあり、ある意味での自主性が尊重されていたと考えられ、地方で決め、実施したものを、後で国が財政負担するのだから、地方自治を阻害することにはならないとも、考えられる。改正後の「定員定額制」は、自主性を阻み、給与の引き上げの抑制効果ともなった。その定員定額の算出基準は政令で決められることとなったため、文部省の財政面からの統制を強化するかたちともなっていた。このような状況の中でシャウプ勧告がなされることとなった。

 

3)シャウプ勧告による地方財政平衡交付金制度導入後の動き

シャウプ勧告では、方自治の確立・強化を目指し、「行政責任の明確化」「能率」「市町村優先」の三原則を掲げ、財政面では、地方税源の拡充強化、補助金の整理・廃止し、地方財政平衡交付金への転換が実施され、全額補助130100億円、一部国庫補助金約210400億円、それに地方配付税580億円が繰り入れられた。文部省関係では、義務教育国庫負担金247億円、定時制高等学校教員費補助66,000万円、公立学校教員共済組合費補助67,000万円など、およそ、2603,000万円が平衡交付金に繰り入れられた。

この金額の大きさからも教育関係者が憂慮したのは、義務教育費が確保できるかという点であったことは容易に察しがつく。平衡交付金は「国は交付税の交付に当たっては地方自治の本旨を尊重し条件をつけ又はその使途を制限してはならない」と第3条第2項で規定されており、需要額として算出され、交付された額を、地方団体が実際に教育費として支出するよう保障するための制度的な拘束は何もなかった。しかし、義務教育は、地方の財政力などの違いにかかわらず、等質・等量であるべきであり、地方団体の恣意により、内容や規模に差が生じるのは望ましいことではないと考えていた。そのため、義務教育費に不均衡が生じることは避けなければならないと考えた教育関係者は、様々な動きと取り組みを始めたのである。

しかし、シャウプ勧告の内容・趣旨を行政事務再配分の面で具体化しようとした勧告がある。1950(昭和25)1222日に出された地方行政調査委員会議(議長・神戸正雄)『行政事務配分に関する勧告』、いわゆる「神戸勧告」である。「神戸勧告」は、「基本的に国が法で定め、地方公共団体に義務付けをするものは最小限にすべきである」、「地方公共団体が処理を怠ったり、やりかたが適切でない場合は、国が法的に枠をはめたり、指導したりするのではなく、住民が選挙や各種の直接請求制度で、世論を喚起し、批判し、是正されるべきである」、「法秩序の維持は、最終的には法制度によって保障すべきである」また、「国は性急に関与するのではなく、住民の自主的な動きをまつ寛容さをもつべきである」との考えに立っている。

この中で、教育に関する部分では、「中学校及び小学校の教育に関する事務は、市町村の責任とし、その経費は市町村の負担とする。但し、国は、教職員の諸給与、学校施設の基準等を定める等により、義務教育の必要最小限度の水準を維持する方途を考慮するものとする」、「法律で定める学校設置、学級編成、教科書検定その他の基準は、最小限度にとどめ、教育委員会が地方の実情に即し自主的に決定する余地を多からしめるものとする」と明示していた。

以上のシャウプ勧告と神戸勧告が目指した点と整理してみると、まず第1点めとして、「教育は地方の事務、責任である。ただし、国民的影響があるので、国としては、負担金・補助金制度で統制するのではなく、必要最小限の水準の確保に関する事項を法律によって定め、その基準に従い、地方公共団体が自主的に決定し、運営していくことが原則である」、「国の定める教育の最低水準の確保に必要な財源は、地方公共団体の一般財源である平衡交付金で保障し、財源と権限の一体化をはかるべきである」、以上の2点に整理できるのではなかろうか。このことから、義務教育の財源は一般財源たる平衡交付金、国は基準設定を立法で行うという教育条件と教育財政の制度構想が見えてくるといえる。

 

4)文部省の義務教育行財政制度構想の変遷

1946(昭和21)125日の文部省省内試案「地方教育行政機構刷新要綱」では、「中等学校以下の公立諸学校に於ける設備及維持の経費並に校費の負担は従来通りとするも俸給諸給与に関しては之を全額国庫負担に改る」とされていることからも分かるように、文部省は、全額国庫負担制度を望んでいたことがわかる。しかし、分権化を強く推進しようとしていたGHQや内務省、大蔵省などの反対にあい、退けられている。

 全額国庫負担化が実現しないことになると、その構想は撤回し、教育財政の独立を主張した。具体的には、国庫負担制度は給与費と教育経常費の一定額を補完するものとして残し、地方では教育税を創設する。その上で、教育委員会に教育予算の議決権を付与することを主張したのである。しかし、これも実現はしていない。

 その後は、“学校財政法案”とか、“教育財政法案”といわれる法案で、義務教育費国庫負担制度の拡充を試みる。これらの大部分は、学校の施設整備・運営・教職員給与などすべてを算出し、国と都道府県と市町村での負担区分を決め、すべての経費の一定割合を国が負担する内容であった。

つまり、当時の文部省は、「全額国庫負担制度では、地方の教育に対する熱意を失わせることになりかねないし、地方ごとの特色を予算に反映させる道が閉ざされてしまう、また国の財政窮乏の折には、額が不十分なものになる可能性がある」、「教育税は、景気変動により変動するので、安定性に欠け、不適切」と考え、学校種別ごとに基準経費を算出し、その一部を国が負担し、残りの部分は、地方財政において財源措置を講じていこうとしたようである。

 その後、1949(昭和24)年326日に文部省は“学校財政法要綱案”を発表している。これは、以前の“学校財政法案”や“教育財政法案”といわれるものとほぼ内容的には同じであったが、教育水準の全国的統一性とその水準を遵守させるために、教育水準と教育条件整備に関し、文部省が強い発言権と監督権限を持つ内容を含む“学校標準法案”を作り、 “学校標準法案”で定められた基準を確保するために、“教育財政法案”で財源を確保するというかたちを作り上げるものであった。

 シャウプ勧告のおよそ2か月後に、教育刷新審議会第9回総会では「公立学校の標準教育費等について」という建議を行っている。これは、公立学校の標準教育費等に関する法律案をつくり、教育関係経費すべてを算出し、地方にその支出義務を負わせることなどを含む内容のものであった。この建議を受け、文部省は“標準義務教育費の確保に関する法律案”の作成を急ぎ、地方財政平衡交付金制度の実施前に、制度の枠内で義務教育費の確保を図ろうとしたのである。しかし、閣議決定を経て、1950(昭和25)年の通常国会にあたる7回国会に提出しようとしたが、この法案は、平衡交付金の根底を覆すものであるとして、GHQの反対にあったのみならず、教育の中央集権化につながるとして、地方の反対にもあい、実現しなかったという。

 

5)義務教育費国庫負担を望む声と復活への端緒

平衡交付金制度実施後、物価の上昇などで教育費は増大したにもかかわらず、地方の税収は増えず、地方の財政を圧迫し、地方税収で義務教育教職員給与をまかなえたのは、全体の20%の都道府県に過ぎず、不足額は100億円にも上ると、全国知事会は公表し、1951(昭和26)年621日の全国知事会議は、義務教育費国庫負担法復活を求める決議を行い、国会にも義務教育費確保の請願があいついだという。

このことを背景に、文部省は、1951(昭和26)年7月ごろから、交付金と国庫負担の折衷的“義務教育国家最低保証法案”、教育扶助を含んだ“義務教育費国庫負担に関する法律案”、“義務教育修学奨励案”など、いろいろ策定に取り組んだが、他省庁の反対にあい、実現しなかったという。

しかし、実は1951(昭和26)年に奨励的補助金の名の下に、産業教育振興法の成立により、文部省所管補助金の中で復活したものが、産業教育振興費である。これは、国の経済的自立を目指す政策目標を根拠に7年間で200億円(国と地方で100億円ずつ)の財政支出をし、職業教育の振興と施設設備の充実を図ることとしたものである。もともと新制高校の発足にあたっては、国の財政支援をしない方針で、義務教育優先の立場から、新制中学校への支援が先になされたことにくわえ、実業教育国庫負担法もシャウプ勧告による平衡交付金導入の影響で廃止されたことや、平衡交付金の単位費用積算においても特別な配慮はなく、施設整備が立ち遅れていたことは事実である。

この法案の審議過程で指摘された主な点は、@普通科偏重傾向による高等学校職業課程入学者の減少と施設整備の不備、A産業教育の前提として基礎的な教育があるべきで、基礎的学力不足のままの産業教育は対症療法にすぎないのではないか、B国が予算をつけ、教育財政が確立していたならおこらないことだったのではないか、などである。

賛成の意見を持つ人の多くは、少数の大学進学者向けの一般普通教育と大多数の大衆向けの職業教育を別のものとしてとらえており、批判した人の意見は、実業界の要請による労働力需要に即応するのではなく、「教養」を有する生産人としての国民をつくっていくという教育の基本構想があり、六・三制、新制高校は、「教養」形成の場であり、それを保障するために、義務教育は無償であるべきとの考え方を持っていたことがわかる。

しかし、この産業教育振興法が成立し、国が財政支出に乗り出すこととなったことは、義務教育国庫負担制度への道すじをつける結果となったといえる。

 

6)義務教育費国庫負担制度復活

文部省は“標準義務教育費の確保に関する法律案”を準備し、閣議決定を経て、1950(昭和25)年の通常国会にあたる7回国会に提出しようとしたが、この法案は、平衡交付金の根底を覆すものであるとして、GHQの反対にあったのみならず、教育の中央集権化につながるとして、地方の反対にもあい、実現しなかったことは、先に述べたとおりである。当時の懸案事項であった政府の下におかれていた義務的行政経費をいかに地方に移し、確保させていくかであった。そのような中で、平衡交付金制度への移行がなされたのであり、交付金の義務教育関係費の割合が、1950(昭和25)年で、都道府県分で約60%、市町村分で約21%を占めており、義務教育費が独立したり、国庫負担に戻ったりしたら、平衡交付金制度そのものの創設趣旨や存在意義が揺るぎかねない状況であったことからも当然の成り行きであったといえよう。

1952(昭和27)年31日、文部省は教職員給与費、学校維持運営費、建築費などを含めた義務教育費の標準的経費を法律で定め、その標準経費を一部の地方負担(税収の一定率)と残り全部の国庫負担として平衡交付金から切り離す内容の“義務教育費国庫負担法案”を発表した。しかし、地方財政委員会と自治庁が強く反対しため自由党政調会が調整に乗り出すこととなり、同315日に最初の妥協案が示されたが、文部省、自治庁など双方から反対をうけ、再度、318日に、@義務教育費の算定基準は文部省案の趣旨による、A国庫負担は@の標準義務教育費総額(教員給与費、教材費などを含む)2分の1下らない範囲とする、以上の2点を主な内容とする調整案を作成した。しかし、地方財政委員会と自治庁が従来どおり反対し、大蔵省も国の財政負担増を危惧し、難色を示した。結局、意見の調整がつかないまま、57日に「義務教育費国庫負担法案」として、自由党の議員提出法案として国会に提出される運びとなった。

国会の審議過程においては、衆議院の文部委員会での可決寸前になり、政府の十分な了解が得られていないとの理由で、採決は見合わせ、66日に改めて関係閣僚が調整協議に入った。そこで池田勇人大蔵大臣は、@教職員給与費の2分の1国庫負担は了承するが、算定基準は政令でさだめること、A教材費の国庫負担率は、「一部」という表現に改めること、B戦災及び災害復旧費の国庫負担条項は削除すること、などを含む申し入れを行った。さらに、岡野清豪自治庁長官から、教職員給与費の国庫負担は、各都道府県の実支出額の2分の1とし、限度額を政令で定めることができるようにして欲しいとの申し入れがあった。成立させるためにはその修正を飲まざるを得ず、法案の第1条が文部省案、第2条以下附則までが大蔵省案、附帯決議が自由党政調会案という提出された原案とはかけ離れたものになった。しかも、重要事項は正式な法律のレベルでなく、政令レベルで定めることとなり、本来の趣旨であったように法律で規定し、文部省をはじめとする中央官庁による裁量の余地を残さないようにしようとする目的は達成されなかったが、審議未了として廃案に追い込まれることもなく、1952(昭和27)年617日衆議院本会議で可決された。しかし、参議院において、第2条第2項を第1項のただし書きにすることや施行期日を政令で定めるのではなく、明確に1953(昭和28)年41日とするなどの修正案が出され可決された。この修正案が衆議院に再回付され、同年731日、義務教育費国庫負担法は衆議院本会議で可決成立した。

 

3. おわりに

先にみてきたことからもわかるように、義務教育費国庫負担制度は難航の連続と妥協の産物ともいえるほどの経緯である。地方財政委員会と地方自治庁は、この義務教育費国庫負担法の趣旨は、1952(昭和27)年5月になされた「中央官庁の所管行政は、各官庁の政令で義務的行政水準を維持することを規定し、それに反した場合は、官庁は地方財政委員会を通して勧告を行い、従わない場合は、交付金の全額または一部を返還させる」内容の平衡交付金の改革で十分達成しうるものであったとしている。

ここに、現在、地方分権を進め、三位一体改革で、権限と財源の国と地方の割合を再構築しようとする中で出てきている意見と同種であると強く感じ、長年の論点であり、さまざまな経緯が絡む、根の深い問題であると再認識せざるを得なかった。

なお、1949(昭和24)年10月に、文部省は「シャウプ使節団日本税制報告書の文教政策に及ぼす影響について」という文書を公表しており、その内容の検証も行う予定であったが、またの機会にゆずることとする。

 

 

【参考文献】

1) 小川正人『戦後日本教育財政制度の研究』、九州大学出版会、199112

2) 須田八郎『わが国における教育財政の変遷』教育出版株式会社、19852月、pp.123141

3) 高木浩子「義務教育費国庫負担制度の歴史と見直しの動き」、国会図書館・調査及び立法考査局『レファレンス』

64120046月、pp.735

国会図書館HP(http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/refer/200408_641/64101.pdf) 050504現在