地方財政平衡交付金制度の概要と時代背景

 

江 口  和 美

 

1. はじめに

 義務教育費の国庫負担は、1950(昭和25)年の“シャウプ勧告”により、地方の自治を阻害するとして、一旦廃止されたが、1952(昭和27)年に復活した。また、国庫負担廃止と同時に導入された“地方財政平衡交付金制度”1953(昭和28)年に改正され、“地方財政平衡交付金”が交付されたのは、1950(昭和25)年度から1953(昭和28)年度の4年度にすぎなかった。

今回、“地方財政平衡交付金”は、どのような時代背景の中、何を目指して創設されたのか、また、どのような制度になっていて、何が問題であったのかについて整理することにより、今後、なぜ義務教育費の国庫負担が復活したのか、それは“地方財政平衡交付金”に瑕疵があったからなのか、また、今、義務教育費を地方交付税での一括交付にした場合に危惧される点と利点について考える上での基としたい

 

2. シャウプ勧告と地方財政平衡交付金

1)シャウプ調査団来日当時の国内の状況

1949(昭和24)年2月に来日したコロンビア大学教授であるカール・S・シャウプ博士を団長とする税制調査団が、同年8月にわが国の税制改革とともに、地方財政について勧告をしたのが、いわゆる「シャウプ勧告」である。

従来、わが国の地方税体系は、地租、家屋税、営業税、住民税、遊興飲食税、入場税等の付加税を中心としており、府県と市町村が財源を折半していた。くわえて、地方配付税として、国税である所得税と法人税等の一定割合を地方団体に配付し、財源調整の機能を持たせていた。しかし、敗戦直後には臨時軍事費特別会計の放漫な支出、その後の復興金融金庫融資などが通貨増発をもたらし、インフレーションを引き起こしていた。昭和21年には、「預金封鎖」、「新円切り替え」という非常対策を実施したが、功を奏さず、日本政府は生産拡大を優先し、段階的にインフレ収束を図る漸進的な「中間安定論」を唱えたが、インフレ収束に主眼をおくアメリカ政府の「一挙安定論」が優勢となり、日本経済の「自立化」、「安定化」を目的とし、総司令部が1948(昭和23)日本に命じたのが、企業合理化3原則経済安定9原則である。

経済安定9原則具現化のために、昭和24に来日したデトロイト銀行頭取で、自由主義的経済政策の信奉者、ドイツ占領軍の軍政部財政部長を務めた経験もあり、後に全米銀行協会会長となるジョセフ・M・ドッジが日本占領軍経済顧問として、ドッジ・ラインを組み立てた。

ドッジ・ラインは、まず超均衡財政によるインフレ収束をめざし、1949(昭和24)度予算は、歳入超過の黒字予算となり、その黒字は国債や復金債の償還にあてられた。国債・復金債の大半は日銀が所有していたため、通貨は急速に日銀に吸収されて収縮した。一方、公共支出増大の主因だった復興金融金庫は、1949(昭和24)3月に融資活動を停止した。また、為替レートの360円固定なども実施され、通貨増発要因は解消してインフレは一気に収束した。しかし、復金融資の停止やデフレーションで倒産・解雇があいつぎ、“ドッジ不況”がもたらされ、 朝鮮戦争による特需景気まで回復しなかった。

また、財政緊縮方針に沿って、地方財政は、地方配付税収入が所得税と法人税収入の100分の33.14から100分の16.29に切り下げられ、起債や公共事業等も抑制されたために、地方財政は次第に逼迫の度を強めていった。シャウプ調査団が来日したのは、このような時期であった。

 

2)シャウプ勧告

 シャウプ勧告は、税制面においては直接税中心主義に立ち、また、財政民主化の観点から地方自治の強化にも言及し、とくに、国と地方とのあいだでの事務配分に関して、行政責任の明確化・能率的事務割り当て・市町村優先の原則を呈示した。

地方財政に着目すると、@地方財政、特に市町村財政の強化を優先させること、A国と地方団体間の事務配分を明確にし、所要財源の交錯を少なくするために、地方税は従来の付加税制度を廃止し、独立税で構成することとし、府県はあらたに付加価値税を創設し、市町村には住民税と従来の地租、家屋税等の府県から移譲された不動産税(固定資産税として新設)で独立財源とすること、B従来の地方配付税制度では、毎年度、国の財政状況や、景気の動向によって金額の変動があるので、地方財政上必要な額を確保できる保障がなく、配分の方法も税収と財政需要を反映しておらず、適当でないので、地方の財政調整の手段として、地方財政平衡交付金制度を採用し、地方団体への財源調整と財源保障機能を強化すること、C従来の国庫補助金は、一部の奨励的補助金のみを残し、全額補助金を全廃するとともに、一部補助金についても大幅に削減し、平衡交付金の中に繰り入れること、D地方債の発行は、一定の限度内で自由化を進めること、などが勧告された。

 

3)シャウプ勧告による地方財政平衡交付金制度の理念

従来は、地方財政の調整機能を果たすものとして、地方配付税制度があり、所得税と法人税の一定割合を財源としていたが、景気の変動に影響されやすく、年度によりかなりの差異が生じ、安定性に乏しい税目であることから、毎年度、必要額が確保できる保障がないという欠点を持っていた。また、配付税を都道府県と市町村で折半するという配分の方式も、実際の財政需要と対応した配付にはなっておらず、財源調整機能としては妥当とはいえなかった。

シャウプ勧告による地方財政平衡交付金制度は、財政力と財政需要が一致しない地方団体において、財政収入と地方行政の質を均等化する目的で、財政標準的財政需要額を、客観的、科学的に測定し、実際の税収との差額を補てんしようとするものであった。

また、中央省庁の地方支配を排し、地方団体の自主性を強化するため、国庫補助負担金の大幅な整理と一般財源化への振替えをおこない、「地方のことは、地方で」という考えを明確に具現化しようとした。

 

4)地方財政平衡交付金制度の特徴と実態

地方財政平衡交付金(地方財政平衡交付金法・法律第二百十一号(昭二五・五・三〇))は、「第三条 国は、毎年度各地方団体が提出する資料に基き、すべての地方団体について、この法律に定めるところにより、財政需要額と財政収入額とを測定し、財政需要額が財政収入額をこえる場合における当該超過額を補てんするために必要且つ充分な額を、地方財政平衡交付金として、国の予算に計上しなければならない。」としており、国税収入と交付総額が連動するものでなく、地方の財源不足額の積み上げ方式が取られていた点も大きな特色といえる。

地方団体を運営するにあたっての経費に対して、税収の不足分を交付金で補てんするという、地方団体間の財政調整という面で、徹底したものであったといえるが、言い換えれば、地方の収入の多少にかかわらず、経費は国によって100%保障されることになったともいえる。ただ、徹底した補てんにより、単に地方団体間の財政力の不均衡を調整するだけでなく、一定水準の行政をすべての地方団体に保障しようとする、いわば、地方団体の財源保障制度で、画期的な地方財政調整制度ともいえた。

では、実態はどのようであったのだろうか。まず、交付と交付による効果をみてみる。

@ 全国の団体数と不交付団体数1950(昭和25)年度をみてみると、全国10,461団体のうち、不交付団体は422(都道府県2、市町村420)であり、1951(昭和26)年度では、全国10,165団体のうち、不交付団体は534(都道府県2、市町村532)であった。

A 地方の歳入総額に占める交付金の割合…平均は、都道府県・21-24%、市・10%、町村・23-26%、大都市・4%前後。

B 地方の歳入総額に占める交付金の割合幅…都道府県・0-30%超(30%超は、青森、鳥取、鹿児島、他) [26年度決算]、市町村・0-20%超(20%超は、舞鶴、都城、鈴鹿、米子、米沢、萩、他) [26年度予算]。

C 団体間の財源均衡化の実現度合い…【都道府県】東京、神奈川、愛知、京都、大阪、兵庫の6富裕都府県と、青森、岩手、秋田、山形、鳥取、鹿児島の6貧弱県の人口一人当たり額の平均を比較してみると、地方税収は豊な上位6団体平均2,742円、少ない方からの6県平均646円。交付金を加えた一般財源は、豊な上位6団体平均2,928円、少ない方からの6県平均2,281円。非常に接近しているといえる。参考までに、1941(昭和16)年度においての一般財源は、豊な6団体平均1118銭、少ない6県平均632銭であった。【市町村】人口一人当たりの税収額は、大都市3,616円、その他都市2,240円、町村1,243円。一般財源は、大都市3,779円、その他都市2,678円、町村1,793円。

以上のことより、平衡交付金の交付により、団体間の財源調整がある程度実現されていたといえる。

つぎに、第三条に規定されているように、国の一般会計予算として、財政平衡交付金の額を計上しなければならないことから、前年度に地方の財政収入額と財政需要額を算出しなければならなかった。つまり、前年度に次年度の地方の歳入歳出を見積もらなくてはならず、その算定に用いる単位費用も法定されたものでなく、地方財政委員会で決定されたものであった。

財政需要額を算出する際に用いる、地方財政委員会で決定される単位費用は、全国的に一律で定められ、それに(1)人口、小学校の児童数その他測定単位の数値の多少による段階、(2)人口密度、(3)測定単位の数値の帰属する市町村の規模、(4)寒冷度及び積雪度、(5)面積、河川の延長その他測定単位の基礎をなすもの、以上5種類の測定単位の数値の補正をして用いているだけで、様々に異なる地方の状態を反映できておらず、実際の単位費用と乖離が生じていた。例えば、農業行政費の測定単位には、耕地の面積と農業従事者数を用いているが、果樹園・花き栽培・野菜など多角経営を行っている場合など、必要経費額が十分に反映されなかったし、道路橋梁費の測定単位は、面積のみを用いていたが、距離は短くても交通量の多い大都市圏などでは、実際の必要経費が十分に反映されていなかった。

 また、財政収入額においても算定の際に、各県の税収の実績を用いないで、客観的な資料により、間接的に測定し、景気変動などによる税収入の変化が反映されにくかったために、実際の税収が算定額に大きく満たない状況もあった。例えば、1950(昭和25)年度においては、県税の主軸となる事業税が、新潟で12%、神奈川で36%も算定額が実際の税収を超えていた。

 

5)地方財政平衡交付金から地方交付税制度への移行

 1950(昭和25)年度から導入された地方財政平衡交付金は、1950(昭和25)年度から1953(昭和28)年度までの4年間しか交付されておらず、1954(昭和29)年度には地方交付税交付金が取って代わっている。もちろん、地方財政平衡交付金制度が、単位費用も法定されず、暫定措置も多く、制度的に確立していなかったことも事実であるが、平衡交付金制度が終焉を迎えざるを得なかった理由には、他の要因もあると考えられる。ここで改めて制度的な理由から順に、整理をしてみる。

制度的な理由としては、@財政需要算定の単位費用が、一般に実際を下回っていたことや、測定単位や補正が各地方の実態を十分に捉えておらず、十分な財源調整、財源保障につながらなかった。A交付金の配分が道府県に傾斜し、基礎的団体としてシャウプ勧告でも重視された市町村には、総額の3分の1しか交付されず、財源調整がうまくなされなかった。これは市町村重視のシャウプ勧告の方針にも、そぐわないものであったといわれている。[1976, 藤田, pp.317-8]

また、制度的ではないが、国の法令・施策・公共事業の増大や、公務員の給与改訂などもあり、義務的経費が増加したにもかかわらず、前年度に算出された交付額のままであったため、地方の負担が増加した分をまかなうことに費やされ、自由度が高まるには程遠い状況であった。

社会情勢的理由としては、シャウプ勧告では、1950(昭和25)年度に計上する交付金予算を1,200億円と見積もっていたが、ドッジの財政緊縮政策の影響で、日本政府が計上したのは1,050億円に過ぎず、全国知事会をはじめ地方団体から猛烈な反対があり、地方財政平衡交付金の実施前から、前途に大きな不安がいだかれた。1950(昭和25)年度補正予算の編成に当たっては、地方財政委員会は給与関係費の増加、法令改正による財政需要の増加、災害復旧費・失業対策費の増大などを理由に、88億円の増額を要求したが、政府は、35億円の増額に抑えた。これにより、1950(昭和25)年度の財政平衡交付金額は1,085億円となったが、これは、国庫補助金整理による振替分305億円を引くと、780億円となり、結果的には1949(昭和24)年度の地方配付税額667億円と比べて、113億円増額にすぎなかった。しかも、この額は、ドッジの緊縮財政政策により削減される以前の1949(昭和24)年度の地方配付税額1,145億円をかなり下回っている。[1976, 藤田, pp.303-8] つまり、制度の開始当初から、ドッジの緊縮財政政策のもと、構想を十分に実現するに足るだけの財源が与えられなかったともいえ、この制度がうまく続かなかったことにも、大きく係わってと考えざるを得ない。

以上の制度的問題ととりまく社会的状況から、前年度に地方の歳入歳出を見積もるときに、税収の予定をできるだけ大きく見積もり、交付額を減らしたい大蔵省と、税収をできるだけ確実な線で算出し、確実に行政水準が維持できる体制を確保したい地方財政委員会、地方自治庁と当事者である地方団体との間で、毎年、翌年の国の予算編成を編成する折に、に意見の対立が生じ、事務折衝ではまとまらず、政治折衝に持ち込まれるという事態が繰り返された。

また、政府から交付されるという形式から、地方団体にとっては、地方の独自財源であるという観念が薄くなり、財政も苦しかったことから、地方団体は交付金の増加を常に求める気運を高める結果となり、赤字がでれば、交付金が少なすぎたのだとの主張するようになり、地方財政平衡交付金(地方財政平衡交付金法・法律第二百十一号(昭二五・五・三〇))の「第三条4 国は、交付金の交付に当つては、地方自治の本旨を尊重し、条件をつけ、又はその使途を制限してはならない。」という項が活用されるほどの自由度もなく、中央依存の図式が醸成される結果となった。

 

3. おわりに

 地方財政平衡交付金は、制度的に成熟しておらず、脆弱な部分があったのも事実であるが、社会の状況とも関係し、長続きしなかったことがわかる。

興味深いことは、地方財政平衡交付金制度が完成した、1949(昭和24)年のシャウプ勧告の2ヶ月後に“教育刷新審議会”は、義務教育は本来地方団体の財政力などの如何にかかわらず、等質、等量、であるべきで、地方団体の恣意により、義務教育費に不均衡が生じることは極力避けなければならないと、地方団体に標準教育費の支出義務を負わせることや公立学校の標準教育費などに関する法律を作成することなどを盛り込んだ「公立学校の標準教育費等について」という建議を行っている。また、その建議を受け、文部省は「標準義務教育費の確保に関する法律案」の作成を急いだ事実がある。ここ数年行われている、“三位一体改革”による義務教育費国庫負担についての官邸、総務省、財務省と文部科学省の議論を想起させるものがある。

今後、あらためてその当時の動きと展開を整理し、現在の動きとの比較検証することは、地方分権時代にとるべき義務教育のしくみについて考える上で、不可欠であろう。

 

【参考文献】

1)遠藤安彦『地方交付税 現代地方自治全集K』、ぎょうせい19782月、pp.2231

2)藤田武夫『現代日本地方財政史(上巻)』、日本評論社、19764月、pp.283318

3)石原信雄『新地方財政調整制度論』、ぎょうせい、20003月、pp.4080

4)佐々木隆爾編『昭和の辞典』東京堂出版、19956月、pp.214

5)須田八郎『わが国における教育財政の変遷』教育出版株式会社、19852月、pp.123141